各界で活躍する会員達
野邑 泰弘
(昭和37年 機械科卒)
昭和37年に姫路工業大学付属高等学校の機械科を卒業いたしました。その頃から、性能の良い機械装置の開発研究に携わりたいと願っていました。
そして、大阪市立大学大学院博士課程を修了、自動車用エンジンの燃焼計測の研究で工学博士号を取得。
その後大阪府立工業高校の教員、大阪市立大学工学部助手を経て、平成2年大阪市立大学大学院教授(機械工学専攻環境・熱工学部門)を拝命し、平成19年に定年で大阪市立大学名誉教授となりました。
大樹孝啓住職
(昭和15年 工芸図案科卒)
圓教寺には昭和40年から服務し、59年から住職として務めています。僧侶としての仕事と数多い重要文化財の修理とそれを守る防災、防犯設備工事に半世紀を過ごしてきました。
80歳になって住職を譲職すべき処、比叡山延暦寺での深題という職を仰せ付けられ、多くの行事法要に出仕の為に度々比叡山に登っています。天台宗での法要の多くは論義法要が修され、探題は論題を出して、問者と講師が議論します。
それについて批評や判定をするのが役目です。その為に下調べや準備が必要で時間を費やしています。論議は約2時間程が多いですが、時には10時間を超す事もあり、老体には重労働です。而し、与えられた事は嫌がらずに修行と考えて取り組む事が大切だと積極的に進めています。
一歩、一歩進めば知らぬ間に到達するものです。後何年この世に置いて貰えるか、90年の酷使に耐えてくれたこの身体に感謝し大切にしつつ頑張ろうと考えています。
安保 正一
(あんぽ まさかず)
1975年3月: 大阪府立大学大学院工学研究科博士課程修了(工学博士)
1975年5月: 大阪府立大学工学部(応用化学科)助手、その後、講師、助教授
1990年4月: 大阪府立大学 教授
2007年4月: 大阪府立大学 大学院工学研究科長(工学部長)
2009年4月: 大阪府立大学 理事〔教育・研究担当〕・副学長 地域連携研究機構長・21世紀科学研究機構長
2013年4月: 大阪府立大学 学長顧問 植物工場研究センター長・エコロジー研究所長 この間、 カナダ国立科学研究所(NRC)博士研究員、パリ第6大学、トリノ大学、 華東理工大学(上海、中国)、福州大学(福州、中国)、国立台北科学大学(台北、台湾)、ヨンセイ大学(ソウル、韓国)、東京工業大学、東京大学、立教大学、千葉大学、名古屋大学、富山大学、九州大学、大阪大学等の30大学の非常勤講師・客員教授を勤める。
ななじ 眺
(ななじ ながむ 1974年2月19日 )
日本の少女漫画家。兵庫県加西市出身。血液型はO型。
兵庫県立姫路工業高等学校デザイン科卒業後、19歳で漫画家デビュー。
以後、『マーガレット』(集英社)で、恋する少女を描いた作品を発表して活躍。
代表作はドラマCDも発売された『パフェちっく!』。
2007年から2010年にかけては『マーガレット』で『コイバナ!〜恋せよ花火〜』を連載した。
松尾 喜久子
姫路中央体育館で「日展」の巡回展が開催されました。いつかこんな絵を描きたいと思ったのが日本画でした。
高校では美術三昧の毎日をと願い、姫路工業大学付属高等学校に入学いたしました。
絵画・商業デザイン・工業デザイン・彫塑・建築・工芸等多岐にわたる授業内容で、幅広い分野の基礎知識を身につけることができました。その全てが今の制作に役立っています。中でも奥山先生の「墨と筆による写生」は、楽しくて洒落ていて、何枚でも描いていたいと思ったものです。
私の所属する日本美術院は、岡倉天心先生、横山大観先生等が創設され、近年では小倉遊亀先生、平山郁夫先生が有名です。伝統と歴史のある、そして数ある画壇の中でも最高峰の団体です。しかしながら、東京芸大の先生方中心であるため、関西では馴染みが薄く、兵庫県下で特待無鑑査は私只一人のような状態です。
画人として「集大成の作品」をと願いつつ、日々悩み苦しみながら、ひたすら勉強を続けています。
真田 裕貴
(さなだ ひろき 1984年2月7日 )
東京ヤクルトスワローズに所属するプロ野球選手(投手)大阪府生まれ兵庫県高砂市育ち。
高砂市立宝殿中学校から兵庫県立姫路工業高等学校に進学後、3年時にエースで4番として第73回選抜高等学校野球大会に出場。初戦の対日大三高戦では近藤一樹から本塁打を放ったが敗退。
夏は兵庫大会決勝でグエン・トラン・フォク・アンを擁する東洋大姫路高校に惜敗。
その後、AAAアジア野球選手権日本代表に選出され先発投手として好投した。高校時代は最速146km/h、高校通算25本塁打を記録。2001年のドラフト会議で読売ジャイアンツから指名され入団。
2002年はシーズン序盤からイースタン・リーグで好投、対日本ハムファイターズ戦では相手のバットを8本折り、「あんなえげつないスライダー(またはシュート)は初めてだ」と言われた。後半戦は一軍の先発ローテーションに定着し、6勝3敗の成績を残し優勝に貢献。シュートを持ち球にしていること、死球を恐れない度胸と投球術を絶賛された。ドラフト制導入後に高卒1年目で6勝以上を挙げたのは球団史上堀内恒夫以来36年ぶりだった。
万永 貴司
(まんえい たかし 1972年7月7日)
兵庫県姫路市出身の元プロ野球選手(内野手)。
2013年から横浜DeNAベイスターズの二軍内野守備走塁コーチを務める。
姫路工高から、社会人野球の中山製鋼所へ進む。
1992年に日本生命の補強選手として出場した都市対抗野球で優勝。
1993年のドラフト6位で横浜ベイスターズに入団
大西泰世
(おおにし やすよ 1949年)
川柳作家。兵庫県姫路市出身。兵庫県立姫路工業高等学校デザイン科卒業。26歳より川柳を始める。1983年、第1句集『椿事』を発表する。1985年、姫路市でスナックを開業(のちに赤穂市に移転)。そのかたわらカルチャースクールや関西学院大学、兵庫県立大学などで講師を務める。
大西の川柳は詩的要素が強く、俳句でいう季語に相当する語を取り入れることも多い。『現代の俳句』(平井照敏編)や『現代俳句ニューウェイブ』など、俳人と同列の扱いで収められているアンソロジーもあり、現代俳句協会の現代俳句データベースにも収録されているなど、俳句と川柳のボーダーラインに立つ作家とみなされている。第三句集『こいびとになってくださいますか』で、第1回中新田俳句大賞を受賞。本人はあくまで川柳の名にこだわり、「やはり私の句は「川柳」として読んでいただきたいのだ。」と語っている。
中村 祐造
(なかむら ゆうぞう 1942年4月24日 – 2010年7月20日)
日本の元男子バレーボール選手、元バレーボール男子日本代表監督。
兵庫県立姫路工業大学附属高等学校(現・兵庫県立姫路工業高等学校)から八幡製鐵に入社。同社所属のバレーボール選手としてプレーした。オリンピックには第18回東京大会、第20回ミュンヘン大会の2回出場。特にミュンヘン大会では日本代表主将としてチームを支え、準決勝の対ブルガリア戦に途中出場してセットカウント0-2と追い込まれた状況から逆転勝ちを呼び込む立役者のひとりとなるなど、日本の金メダル獲得に力を尽くした。
1973年、朝日体育賞、文部大臣賞受賞。1977年〜1979年の3年間、小山勉の後を受けてバレーボール男子日本代表監督に就任、1977年のバレーボールワールドカップで準優勝を果たすなどしている。
バレーボールの現場を離れてからはネフローゼ症候群に罹り、1996年にはアメリカ合衆国で腎臓移植手術を受けるなど健康に恵まれなかったが、病身の身をおしてバレーボールの普及指導活動などに取り組んでいた。2010年7月20日、脳内出血のために逝去。68歳没。
藤本 達夫
(ふじもと たつお 1940年3月29日)
兵庫県赤穂市坂越の出身の元競泳選手
1960年ローマオリンピック競泳男子4×200m自由形リレー銀メダリスト。
中央大学を1962年に卒業。1964年の東京オリンピック競泳男子4×100m自由形リレーでは4位となった。
宮殿師 奥居 隆夫
(おくい たかお S40 産機卒)
仏檀を制作するには工程が分業化されており仏間に合った寸法の木地を作る【木地師(きじし)】、木地の中にはめ込む宮殿(くうでん)を作る【宮殿師】、欄間などの彫刻を手がける【彫刻師(ちょうこくし)】、漆を塗る【塗師(ぬりし)】、その漆を磨き上げる【呂色師(ろいろし)】、金箔を施す【箔押師(はくおしし)】、の他【錺金具師(かざりかなぐし)】、【蒔絵師(まきえし)】、【彩色師(さいしきし)】、と9種の専門職の手にかかります。
宮殿師の仕事は、須弥檀(しゅみだん)の上に柱を立てて御本尊を安置する破風造りの屋根(宮殿)の制作。
制作工程は、木取り(木を寸法に切る)、削り、彫り、組み立てという一連の流れで行います。
何百という膨大な数のパーツをひとつひとつ手作りで作成し最後に組み立てをします。
剪画 小坂 通泰
(S32 工芸卒)
剪画(せんが)。耳慣れない絵画の世界で制作活動を始めて36数年。グラフィックデザイナーとして観光ポスターを長く続けるうちに出会った。姫路城やイベントポスターに画法がピッタリで結構活かす事が出来た。「家島の昔ばなし」の挿絵や街道みちすがらも長く続いて、私にとって幸せな出会いであった。
誰もが知っている史跡や景勝地もいいが、あまり知られていない場所や風景に思わぬ発見や出会いが待っている。最近では、瀬戸内海の岬で観た海面に展開する光のドラマに遭遇したり。戦国時代の城跡を訪ねる途中、街角で見つけた「染め形紙博物館」のコレクションに感動したり…と。そんな題材には、作画にも思い入れは一層高まる。2007年「はりま風物詩」で作画余話を書いている。旅慣れない私にとってこの播磨の旅は常に新鮮である。と同時に播磨国は全てに豊潤な国であると改めて実感している。
竹内 博之
(S60 デザイン科卒)
昭和60 年3月、デザイン科卒業後、現在の仕事(父が経営する竹内錺金具店)に従事。平成20年より、父に代わり経営者として頑張っています。
祭屋台や新興、壇尻、社寺などを飾る錺(かざり)を手掛けています。
屋台では、姫路の錺師の間で伝えられている播州独特の技“うっとり彫り”と呼ばれる高等な技法を用いて、昇総才・総才端・水切・垂木・井筒・高欄・擬法珠・紋・梵天など細かいものを入れると1000にも及ぶパーツが錺金具で製作されています。担ぎ上げる屋台の負担なども考慮し薄い銅板をいかに立体的に叩き出すかが、重要となってきます。
これまでは麒麟や龍など想像上の動物が多かったですが、近年では今までになかった様な図柄の注文が多く、資料を調べてそれをどう表現するか?!伝統のバランスの中に新しい飾りを求め、依頼主のこだわりにより近いものに表現していく!
志水 優太
(H27電気科卒)
第45回技能五輪国際大会で金メダル
私は電気工事士として働きたく『株式会社きんでん」に就職しました。入社後、新入社員研修の中技能五輪のことを知り作業している顔はとても真剣で、目にもとまらぬ速さで作品をを作っていく先輩たちを見て、憧れを抱きました。
「株式会社きんでん」では電工職種と情報ネットワーク施工職種に出場しており、私は情報ネットワーク施工職種に志願しました。
会社の先輩が国際大会に出場し金メダルを獲得され、自分も国際大会に行きたいと思うようになりました。
誰にも負けたくないという気持ちを持って訓練に励みました。その甲斐あって翌年と翌々年に連続で金賞を受賞することができ、ロシア・カザンで開催される第45回技能五輪国際大会に挑戦できる権利を得ました。
国際大会本番は大きな会場にたくさんの観客がいて独特の雰囲気がありました。4日間競技の1日目と2日目の課題は緊張で思うように体が動かず、予定していた作業を完了できず終わってしまいました。
「4日間通して完璧は誰にでも難しい。チャンスは必ずくる。」と言われその後は気持ちを切り替えることができました。3日目と4日目は落ち着いて作業を進めることができました。4日間で約18時間もあった競技が終わった時には、疲労困憊でしたが、やり切ったという思いでした。
閉会式は世界中の参加者が一堂に集まり、まるで祭りのような雰囲気の中で執り行われました。情報ネットワーク施工職種の結果発表になり、銀メダルでロシアと中国が呼ばれ金メダルでは日本の名前が呼ばれました。表彰台からの景色は今までの苦労をすべて吹き飛ばすくらいの感動がありました。さらに日本人選手最高得点者に与えられるベスト・オブ・ネイションも受賞し、情報ネットワーク施工職種では日本が8連覇することができました。